大阪高等裁判所 昭和55年(ネ)942号 判決
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
第一控訴人らは、「原判決中控訴人らと被控訴人とに関する部分を取消す。被控訴人は別紙請求目録記載の各控訴人に対し、それぞれその請求金員及びこれに対する番号1から5までの各金員については昭和五〇年九月九日から、番号6から15までの各金員については昭和五一年一〇月二一日から各完済までいずれも年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする」との判決を求め、被控訴人は、主文と同旨の判決を求めた。
第二当事者双方の主張は、次のとおり付加するほか、原判決事実中、控訴人ら関係部分摘示のとおり(ただし、原判決一二枚目表一〇行目の「生徒に」を「生徒が」と、同一五枚目裏七行目の「所得段層」を「所得階層」と、同二六枚目裏八行目の「生存権にかかると認められ」を「生存権にかかわると認められる」と、その九行目の「保険医療費」を「保健医療費」と各改め、同二七枚目裏一二行目の「財務状況等を勘案して」の次に「、入学金等や授業料等の額を」を加え、同添付原告別一覧表21の(7)のの三行目の「入時時」を「入学時」と改める)であるから、これを引用する。控訴人らは、次のとおり主張した。
一日本国憲法と高校教育を受ける権利
1 はじめに
国民は、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有する。かくして、日本国憲法二六条は、はじめて、憲法のうえにおいて、教育を受けることが国民の基本的人権の一つであることを確認するとともに、これに対応し、教育基本法三条、一〇条二項、一一条において、国が教育諸条件を整備する義務を負うことを明らかにし、明治憲法下における教育に対する国民と国家の関係を一八〇度転換した。従つて、いまここで高校教育を考える場合、まず何よりも、国民の教育を受ける権利の中において高校教育をとらえかえし、憲法の保障する高校教育の真の姿、すなわち高校教育の原点が明らかにされなければならない。
2 戦後の高校教育の理念
(一) 戦前の学校体系は、典型的な複線型体系であつた。すなわち、義務教育であつた六年制の尋常小学校を終えたあとの教育としては、圧倒的多数の少年少女が進む二カ年の高等小学校、更に青年学校というコースのほか、選ばれた一部の男子が進む中学校、同じく女子の進む高等女学校、そして、工業学校、商業学校、農業学校、水産学校等の実業学校などがあつた。
これに対し、戦後の新学制は、教育における差別の撤廃と学校体系の民主化をはかるために単線型体系を採用し、小学校につづく義務制の中学校を単一の学校としたばかりでなく、これにつづく学校も高等学校ただ一種とした。
(二) 新制の高等学校は、いかなる学校として構想され、また現実に設置されたのであろうか。学校教育法は、それぞれの学校の目的について定めているが、高等学校の目的について、高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心神の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする(四一条)と定めている。ここからも明らかなとおり、戦後の高校教育は、小学校教育、中学校教育の延長上に一つの一貫した連続の課程として、しかも、国民共通の教育として、単一性と大衆性をその根本として構想されていることは疑いえない。昭和二二年から同二六年の文部省の通達には、「高等学校は、中学校修了後更に学校教育を継続しようとする者を全部収容することを理想とする」「高等学校は義務制ではないが、将来は授業料を徴集せず、無償とすることが望ましい」、「選抜をしなければならない場合にも、これはそれ自体望ましいことではなく、やむを得ない害悪であつて、経済が復興して新制高校で学びたい者に適当な施設を用意できるようになれば、直ちになくすべきである」、「現在の高等学校は義務制ではないが、国民全体の教育機関として、中学卒業者で希望する者はすべて入学させることを立前とし、学区制も法律にその基礎をもつている」とされている。
更にこれらのことは、戦後の教育改革に大きな影響を与えた第一、二次米国教育使節団の報告書においても、「……さらに三年制の『上級中等学校』をも設置し、授業料は無徴収、ゆくゆくは男女共学制を採り、初級中等学校よりの進学希望者全部に種々の学習の機会が提供されるようにすべきである」、「高等学校も就学希望者に対しては無償でなければならない」と指摘されている。
従つて、以上の諸事実から、新制高校が直ちに義務化されることはなかつたとはいえ、希望するものは全て入学させることを基本原則とし、無償化を現実のものとして展望する国民教育機関として出発したことは明らかである。
3 高校進学率の急増と国の教育政策の転換
(一) 制定当時の学校教育法施行規則五九条には、「①高等学校の入学は、校長がこれを許可する。②入学志願者が入学定員を超過した場合は、入学試験を行うことができる。」と規定され、志願者数が収容力を超えている場合には、入学者の選抜が行われたが、いやしくも入学志願者数が入学定員と同数又はそれに満たない場合に、優秀な生徒のみを入学させようとして入学者の選抜を行うことは全く許されていなかつた。昭和四〇年前後にかけて、中学校卒業生の数自体が増加したばかりでなく、義務化された中学校において中等普通教育を全ての生徒に保障したことが、子供たちの進学志向に拍車をかけ、高校進学率も、昭和四〇年には七〇%を超え、進学者数も昭和二五年には六七万人であつたものが、一七〇万人近くにまで急増した。
(二) ところが、これ以前、徐々にその教育政策を転換し、戦後改革の理念に公然と逆行する道を歩みはじめていた国は、この高校生の急増問題についても極めて消極的な態度をとり、高校生の急増問題については、地方自治体の努力と私立高校による肩替りに依存することになり、昭和二五年には15.5%にすぎなかつた私立高校生は、この昭和四〇年前後には32.8%に達し、その後やや低下したとはいえ、全体の三割弱を私立高校に依存する状況が続いている。
しかも、ここで重要なことは、この国の消極的な姿勢が、例えば財政事情が許さなかつたというような単純な理由からではなく、文教当局の意識的な高校進学抑制策によつていたという事実である。
すなわち、文部省初中局は、昭和三七年四月に、「高等学校急増対策と『高校全入運動』の可否」と題するパンフレットの中で、「一定の高等学校教育を受けるに足る適格者を選んで、それに一定の内容を具備した教育を施す教育的配慮が必要」と、全入主義を批判したが、更に、翌三八年八月には学校教育法施行規則五九条一項は、「高等学校の入学は、……選抜のための学力検査の成績等を資料として行なう人学者の選抜に基づいて、校長が、これを許可する。」と改められ、入学志願者数が入学定員を超過すると否とにかかわらず、学力検査を含む選抜を行なわなければならないこととされた。また、国はこれより先、昭和三六年には、学校教育法の一部改正により、高等専門学校を新たに設け、複線体系へと後もどりしたが、更に、昭和五〇年には、学校以外の教育施設として専修学校を設け、このような普通教育とは全く無関係な教育機関の新設による複線化、多様化の中で、急増する高校進学志向を抑制し、後期中等教育を即戦力となる労働者養成のために従属させたのである。
(三) ところで、世界では六〇年代以降急速に学校体系の総合化、統一化へと向つているにもかかわらず、日本では、逆に、産業界の人的能力開発政策に屈服した多様化政策によつて戦前と同様の複線型へと逆もどりさせようとしているのである。
4 憲法の保障する高校教育
憲法二六条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と、「能力に応じて」という文言をつかい、また、教育基本法三条も、「すべて国民はひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない……」と「能力に応ずる」という文言を使つていることから「能力」に差があるならば、これを理由に教育の機会を制限してもよいという主張が一部でなされている。被控訴人国の主張もそうである。しかし、各条文を素直に読むならば、「能力に応じて」と「ひとしく」とは対等の関係に立つものではない。あくまでも、「能力」は「ひとしく」の意味の説明として書かれているにすぎない。そもそも、「能力」という言葉は多義的ではあるが、少くとも、憲法、教育基本法の上において選別を正当化するための文言としては使われていない。もつと積極的に子供の持つている可能性、潜在的可能性という能動的な姿に注目して使われているといわねばならない。
従つて、以上のことからも、高校教育を現にある能力又は単なる学力を基準にした選別でもつて選ばれた一部の者にだけ保障するという現在の姿は、憲法、教育基本法の保障する高校教育とは似ても似つかない全くの虚像にすぎない。
二高校教育を受ける権利の侵害の実態
1 進学希望の実態
高校進学率の推移自体については控訴人・被控訴人間において争いのないところであるが、現実に殆んど一〇〇%に近い中学生とその親たちが高校進学とくに公立高校への進学を希望しており、かかる切実な国民の教育要求は本件判断の重要な前提として認識されなければならない。具体的には、98.2%の子どもが高校へ行きたい、99.8乃至99.6%の親たちが中学校より上に行かせたい、あるいは本人の意思に任せたいとしており、ことに全日制高校の普通科に76.7%の親たちが進ませたいとしている。
2 大阪における高校選抜制度の差別性
(一) 大阪の高校選抜制度の特徴は、超大学区単独選抜制にある。即ち、府下を九つの学区にわけて、その学区の中に平均して一五ぐらいの高校が存在し、その学区内の一つの高校を選択して受験するという単独選抜制を採用している。この単独選抜制は歴史的に学校間格差を広げることに特色があり、普商工農という序列や同じ普通科の中でのランク付けによる学校間格差を生ぜしめている。大阪府学校教育審議会においても、昭和四一年五月に引続き昭和四六年七月にも「選抜方法の改善について」の諮問をうけて学校間格差の是正を答申し、地域学校群総合選抜方式、(通学区域内の三ないし五の普通科の高等学校で編成された学校群を選択出願させ、学校群の各学校へ成績順に均分に配分する。)も提案されているが、いまだ実現されていない。
(二) 次に選抜方法として学力検査の結果と調査書を加味して合否を決めるという制度になつている。学力による選抜というのは一見合理的に見えるが、問題はここでいう学力がテストによつて計測される学力であり、記憶力のすぐれたもの、反応の速いもの、要領のよいもの、ミスの少ないもの等の特定のタイプの子どもに有利なものでしかなく、憲法二六条の「能力」について、すでにのべたところからすれば到底合理的な選抜方法とはいえない。調査書についても五段階相対評定という相対評価であり、順位を決めるためにノーマルカーブになるよう振り分けているのである。
この制度に見られるのは先に述べた一〇〇%近い高校教育を受けたいという要求をそのまま真摯に受けとめるのではなく、限られた公立高校へ学力テストの点数によつて輸切りし選別するというものでしかないのである。
3 進路指導と入試制度の問題性
(一) 進路指導とは、子供達に自己理解力を養成し、進路情報の提供・啓発的経験を経るなかで、進路についての相談をうけ、進路先の選択・決定の指導援助をなしゆくものであり、その本来の主眼は、子供達に出来るだけ多くの選択方法を、断念させないような形で指導してゆくものであるとされている。ところが、現実の進路指導においては、入試制度・差別・経費等といつた外的要因によつて子供達に進路の断念を指導してゆく実態となつており、それが中学生という一番難しい年頃の子供達への重大な試練としてのしかかり、子供達の多様な、限りのない能力をのばしてゆこうとする教育自体にゆがみを生じさせ、現象として現われる校内暴力・家庭内暴力・登校拒否等は重大な社会問題にすらなつている。
(二)(1) 進路希望の実態調査等によると、希望の実態はすでに述べたとおり(第二の一)であるが、具体的な進路先の選択・決定のプロセスのなかで、ある者は社会的な差別の問題で、ある者は経済的な問題でと、その外的な問題によつて受験の機会を奪われ、更には、教室の外に出て行つてしまう等してその進路を奪われ、断念していつており、ただ外的な阻害要因が少なくてテストの点数の良い者にのみ広い進路選択の幅があるという実態になつている。
(2) 具体的な進路先の選択・決定のプロセスを見ると、中学三年生の二学期には、進路先が選択されてゆくが、ここで就職、各種学校・職業訓練校等を選択した者、又は進学希望であつたところ就職・各種学校・職業訓練校等に進路先を変更した子供達の選択・変更の理由の約半数は「家庭の事情」等経済的な問題を抱えてのことである。また、進学という選択に至つた場合も、常識的には普通科・商業科等といつた科による選択も重要なのではあるが、現実には公立高校か私立高校か、また受験機会ということから公立・私立併願か私立専願か公立専願かという選択が重要ばポイントとなつている。
そこで高校に進学希望する子供・親の希望実態をみると圧倒的多数は経費の関係等で公立高校に進学させたい、しかし公立高校がだめなら高校へ行くのを断念せざるを得ないということから受験機会を二回得られる公私立併願を希望している。しかし、私立高校が併願者と専願者との間で入試合格点数に大きな差異を設けていることを考慮して公立高校の受験を断念させ私立専願にするよう指導したり、親の経済的事情等より私立高校受験を断念させ、公立専願の指導をしている。
更に、具体的な志願校を選択決定する過程においては、現在の受験制度下での高校間格差の実態のなかで、子供達の能力を総合テスト結果、調査表などテストの点数による輪切指導を強いられている。
(3) このような点数輪切りの断念指導という進路指導の実態から、点数が良くなければ思うような高校に行けないとか、高校選択の幅が狭くなるといつたことが社会通念化し、テストの点数をあげるような勉強の仕方、進学塾通いの過熱化という現象となつて表われてきている。
4 選抜制度と階層格差―教育機会の不均等の固定化
(一) 高校入試選抜制度における学力テスト・偏差値体制は高校間格差を子どもの進路でふり分け、不本意入学を余儀なくさせると同時に家庭での社会的・経済的階層による教育機会の不均等を固定化し、再生産する結果をもたらしている。即ち、両親が比較的高学歴でその職業も管理的専門的である場合ほど子どもの公立普通高校への進学率は高く、一方、技能・生産工程作業及び農・漁業関係従事者の場合は、私立の普通高校ないし公立の職業高校への進学率が高いという傾向を示している。つまり、高校における学校間格差と親の学歴、職業との相関関係が、子の高校選択にきわめて大きな規定要因として作用していることがうかがわれる。また、別な調査によると、高校、大学など高等教育をうける機会は、年間所得が多くなればなるほどその確率は高く、また職業階層別にみた場合も、農村漁業者、労務者などの階層はいずれも低率で、他方法人経営者、官公職員などの場合が高率であることが示されている。こうした現象は、階層格差が子の学力の格差となつて発現し、それがまた、今日のペーパーテスト、偏差値で固定化されることによつて、ますます教育機会の不均等を助長、再生産するという仕組みとなつているのである。
(二) ところで、こうした高校間格差という実態及び偏差値体制という現在の教育の機会均等の形骸化を是正するには、抜本的には、超大学区の分割縮少、総合選抜制度の導入等による地元高校の育成とともに、学校施設や設備の格差是正、公立高校の大巾新設がはかられねばならないが、それとともに、親の社会的・経済的階層に左右されることのない進路の選択が保障されなければならないことである。
それは何といつても今日の公教育における受益者負担主義を廃し、経済的な教育条件を整備することである。昭和五〇年以降、大阪府下における公、私間の学費は、比率だけからみると四〇数倍もの比率から徐々にその差が縮少して来た。しかしその実態は、同五一年度から公立高校の授業料を一挙に値上げすることによつてその解消をはかつてきた結果にすぎない。大阪府下での高校進学率は、昭和五〇年度以降低下するという現象がみられるが、公・私ともの学費値上が、高校進学への停滞ないし逓減現象となつて現われているとみることができるのである。
そこで、教育機会の実質的平等を図るという点から学費での助成率をみると、現在の奨学金制度は実に微々たるものである。まず大阪府育英会であるが、昭和五〇年度で貸与者は九〇〇人、同五三年度で二倍となつているが、これでは一クラスにわずか一名ないし二名がその恩典にあずかるにすぎない。それに、成績要件や所得基準などの制約があつて、すでにのべたように、学力と所得とが教育機会の不均等と相関関係にあることからすれば、これらの要件を充たさない場合には、学業の継続をも断念せざるをえない場合も考えられる。所得基準額は、四人家族を例にとつた場合、昭和五〇年から同五四年まで二六七万円、五五年度以降は二七一万円という基準となつているが、経済の高度成長期からその後の低成長期にかけては、名目賃金は増えたとはいえ可分所得はむしろ低下する傾向にあること、長期間にわたる据置きはまた逆に育英制度の基準からはみ出す階層を増加させる結果ともなる。
また、日本育英会法による奨学金制度についても、一般貸与の場合で、五〇年当時大阪ではその対象人員は六九九人にすぎない。公私含め高校生は約三〇万人であるから、大阪育英会の場合よりもその適用は狭いといえる。
(三) ともあれ、今日の入試選抜制度は、親の階層格差と相まつて教育機会を疎外する大きな社会的要因となり、他方その是正策は、端的に私学依存型方式で切抜け、学校間格差とともに教育機会における階層格差をますます拡大し固定化して来たといわざるをえない。
三国の責任
1 本訴訟の基本的争点は、①私立高校生に対する多額の超過学費の負担が強制されている実態は、国の文教政策における受教育権保障のための具体的措置の欠如にもとづくものではないか、②そして右の具体的措置の欠如は、国が文教政策を実施する上において遵守することを要求されている憲法上の義務の違法な不作為ではないか、の二点に集約されている。
ところで①については、私立高校生が置かれている受忍限度をこえる超過学費の負担が、公教育制度を設置し運用してゆく責任を有する国の文教政策との関連で派生していることは、何人にとつても否定しがたいところである。すなわち高校教育は、高等学校の設置者が、国又は地方公共団体であろうと、学校法人であろうと、学校教育法において一つの公教育制度として規定されているものであり、国の公教育制度の一部であるから、それが制度として運用されてゆくことを保障することは国の責任というべきであつて、高校教育制度の存続維持は国の文教政策によつて決定されるという性格を有している。したがつて具体的に高校教育制度を維持してゆくための財政的負担をどこに求めるかは、国ならびに地方公共団体の関与のあり方によつて決定づけられる。そして公教育制度を存続維持せしめてゆくための財政措置全体が国(地方公共団体を含む)の文教政策によつて決定されるとすれば、入学者に対する学費負担額も結局これによつて決定されることにならざるをえない。したがつて、私立高校生が多額の超過学費の負担を強いられているとすれば、それは主として国が、私立高等学校に対する適切な助成措置や私立高校生に対する必要な奨学措置を講じないことによつて生み出されたものであり、両者の間には明確な相互関係が存在するのである。したがつて本件における基本的争点は、実質的には前記②の点、すなわち、国の文教政策における受教育権保障、具体的措置の欠如が違法な不作為を構成するか否かに集約されることになる。
ところでこの争点について、原判決は、右義務の具体化である立法措置、予算措置に当つては、国は、政治的政策的かつ専門的見地に立脚する広汎な裁量の自由を有しており、現在国や大阪府が行つている諸施策以上に、無償化に近づけるための立法措置、予算措置を講じていないからといつて、裁量の範囲の逸脱又は濫用(違憲な不作為)とはいえないと断定する。さらに、右の諸点について若干の点を補足することゝする。
2 第一に指摘すべきことは、国民の教育を受ける権利には過大な経済的負担なしに就学できる権利が第一義的に含まれていることである。近代的公教育は、社会的身分や階級制度による教育機会の不均等を否定することは勿論であるが、何よりも、資本主義社会が少数の有産者と多数の無産者によつて構成されている現実の中で、国民の多数を占める勤労者がその経済的地位によつて教育機会から疎外されることのないよう配慮することを本質的内容としているのである。そのことは近代的教育制度の発展の歴史の中に明確に示されているだけでなく、国際人権規約の中に国民の基本的権利として規定されている。同規約A規約が提示する原則については原審において述べたとおりであるが、本訴訟において控訴人らが展開してきた主張と全く同一であり、控訴人は私立高校における極めて異常というべき高学費がすべての勤労者である父母の負担にさせられている実態こそ、私立高校で学ぼうとする子どもたちの教育を受ける権利を違法に侵害していることを論じてきたのである。
3 そして控訴人らは右の基本主張をさらに明確にするために、比較的低額の学費ですむ公立高校への進学が希望者全員に保障されておらず、相当数の者が極めて不本意に不当に高学費である私立高校への進学を選ばざるをえない現実が存在していること、すなわち私立高校へ進学し、高学費の負担を課せられている私立高校生の大部分は公私立高校への進学について自由な選択権を有せず不可抗力的に私立高校への進学を余儀なくされたものであること、しかも高学費の負担を伴なう私立高校の教育条件は公立高校に比べて劣悪であるから、私立高校生は、同じ高校教育を受けることを希望していながら、公立高校生よりもはるかに多額の学費支払を義務づけられ、それよりもかなり低い教育条件しか受益することができないという二重の差別を負わされていること、右の超過学費は控訴人ら一般の勤労階層にとつては受忍限度をこえるものである。
そしてこうした極端な教育差別を生み出したものは教育上の差別を当然とするに等しい国の文教政策によるものであることを明らかにした。わが国の文教政策は、すでに指摘した教育的人権の保障を求める国際的潮流に逆行し、受益者負担主義をより強める傾向にある。このことは昭和四六年六月の中教審答申において、私立の高等教育機関に対する大幅な公費援助を与えることが必要だとしながら、実際の適用としては、「受益者負担の実際額は、教育政策の立場から、その経費の調達が、大部分の国民にとつていちじるしく困難ではなく、個人経済的には、有利な投資とみなしうる限度内で適当な金額とすべきであろう」とし、「適当な」受益者負担金として一九八〇年には国立二四万円、私立四七万円になることを試算したことによつても示されている。その後の経過は、当時の見通しよりもはるかに多くの学費負担が私立大生の肩に負わされてきたことを物語つている。そして同様のことが高等学校という後期中等教育における教育費の私費負担の強化としても継続されている。高等教育においても、これを受けようとする国民の教育要求は当然かつ正当であるから教育費の私費負担の軽減を図るべきことは当然であるが、準義務化した高校教育課程において私費負担の解消ないし軽減を図るべき必要性はより緊急かつ切実である。しかるに国は高校教育課程における無償化の方向にほとんど何の注意も払つていないといわれても仕方のない対応に終始している。
国、大阪府が実施している学費軽減施策が超過学費の軽減のための対策であることは否定できないけれども、これらの施策によつて私立校の学費の軽減が図られたとか、そのための効果ある制度であるとすることは全くの詭弁以外の何物でもない。すなわちこれらのび縫策にもかかわらず、私立高校生の学費は年々増大を続けているのであり、これらの施策によつて軽減された事実は存在しないのである。いやしくもこれほど極端な高学費の解消を図るためには私立校に対し公立校なみの補助を与えるとか、抜本的な奨学措置によつて私立校生徒への学費なみの奨学金を支給するとかの方法がとられなければならないのであるが、そのどれもとられていないし、またこれらの抜本的施策を真剣に検討しようとする姿勢は全くみられない。
控訴人らが提訴以来一貫して求めてきたのは、現に存在している、超過学費の解消の施策がとられるべきであるとしたものであり、若干の施策が存在していることを前提として、これだけでは超過学費解消の施策が実施されているとは到底いえないとしたものである。
私学振興助成法による助成額が昭和五一年度において一人当り六万円に増額されたとしても、控訴人らは同年度において入学年度の場合は三十数万円、第二学年以降の場合でも一七万円以上の学費負担を受けていたのであるから、右助成額では到底有効な学費軽減措置となりえなかつたことは明らかである。また大阪府の授業料軽減制度についていえばこれは大阪府独自の施策であつて、国の施策の欠如による多額の学費負担のごく一部を解消させることにはなるが、抜本的な解消施策を講ずべき国の責任を免責せしめるものでは決してない。日本育英会の育英奨学金制度についていえば、昭和五三年度の高校生徒への一般貸与は人員三〇、七〇一名のうち私立高校は僅か三、〇〇〇人であり(貸与額月額公立六、〇〇〇円、私立八、〇〇〇円)、特別貸与については六三、一五〇名のうち私立は六、四〇〇名(貸与額月額公立七、〇〇〇円、私立一〇、〇〇〇円)にすぎない。昭和五二年度の私立高校在学者数は一、二九八、五五三人であるから、これと対比すると、五二年度にも五三年度と同一数の奨学生がいたと仮定しても、一三〇万人のうち九、四〇〇人であるから0.72%にすぎず、学費軽減の措置として取り上げることができるものではない。
これを要するに、国は本件超過学費の軽減に資する有効な施策を全くとらなかつたことに帰するのであり、こうした有効な施策の欠如は、明らかに文教施策実施における合理的裁量の範囲をこえるものと解すべきである。
4 本訴において控訴人らが公私の学費格差の違法性を訴えているのは、決して、公立高校生が私立高校生に比して不当に低廉な学費を享有しており、それを不当な差別だとしているものではない。むしろすべての国民に開かれているべきである高校教育について無償化が強く要請されており、公立高校生が一般の勤労者世帯の生活水準からみて比較的低い学費負担を有していることは当然かつ正当であるとするものであり、これとの対比において私立高校生に負わされている異常な高学費が一般勤労者世帯にとつて受忍限度をこえるものとして違法であるとしているのである。こゝで教育の機会均等が破られており、控訴人らの権利が侵害されているという場合に、その不均衡による違法は、低所得の勤労者である控訴人らが、その経済的条件によつて、かかる異常な高学費の負担に堪えることができないことについて主張されているのであつて、同じ高校教育を比較的低い経済的負担で受益できる立場にある公立高校生が不当な受益をしていることによる差別として捉えているものではない。
公教育、とくに基礎的段階における公教育は当然無償化を指向すべきものであるから、公立高校における比較的低額の学費は当然であり、これが不当に高額化することは許されないし、かりに公立高校の学費が現行よりも高額化してゆくとすれば、公立高校学費そのものが国の文教施策の不作為による超過学費に転化し、国の法的責任が問われることになる。すなわち本件において問題とされている私立高校の高学費は、これを負担させることがその経済的条件によつて困難である勤労者世帯に押しつけられている点に違法性を有するものであり、超過学費の負担によつて経済的理由による修学困難性が生み出されているところに問題が存在しているのである。したがつて本件は、公立高校の入学選抜制度が公平に行われているかどうかとは直接の関係は存在しない。たとえ公立高校の入試選抜が行われておろうとも、客観的条件によつて公立高校への途を閉ざされたため私立高校に就学するに至つた控訴人らに対し、私立高校生であるとの理由で一方的に高額の超過学費を負担せしめられることが、私立高校生の高校に就学する権利を侵害するものであるとしているのであり、教育の機会均等が実質的に侵害されているとしているのである。
四立法不作為と国家賠償
1 立法不作為に対する国家賠償請求の可否については、国会議員も法律制定という公権力の行使にたずさわるものであるが故に、国会議員が憲法上一定の立法をなすべき義務すなわち立法義務を有するにもかかわらず、当該立法をしない場合には、当該立法の不作為についても国家賠償法の適用が認められるといわねばならず、このことは、少くとも現在においては、学説上も、判例上も異論がない。
従つて、本件においても、その具体的適用にあたり、立法不作為の前提としての立法義務が認められるのか否か、更に立法義務が認められるとしても、それだけで直ちに違憲性を帯びるに至るのか否かということが問題となるにすぎない。
2 そこで、まず立法義務の存在についてであるが、憲法二六条は、原判決も認めるとおり、親がその子どもに対して負う普通教育を受けさせる義務を実効あらしめるために、国に教育諸条件整備義務とりわけその立法義務を負わせており、これは何も九年制義務教育の範囲だけに限定されるものではない。ことに時代の進展に伴なう国民の教育要求の高まり、更に今日の高校準義務化の実態の中においては、必然的に高校教育においても、前記立法義務が国に課せられていることは明らかだといわざるをえない。もつとも、その具体的内容すなわち、右教育条件整備の方法や程度については、合理的な範囲において国に一定の裁量の幅が許されているとはいえ、右裁量は、いやしくも、これを実施するか否かについてまで及ぶものではない。
ところで、昭和四〇年前後にかけて、戦後のベビーブームによつて生まれた子ども達が中学校を卒業するようになり、中学校卒業生の数自体が増加したばかりでなく、義務化された中学校において中等普通教育を全ての生徒に保障したことが、子ども達の進学志向に拍車をかけ、高校進学率も、昭和二五年には42.5%であつたものが、昭和四〇年には、70.7%と七〇%を超え、更に、昭和四五年には、82.1%と八〇%も超え、いわゆる高校準義務化の実態が現出したが、この中にあつて、例えば大阪府下にあつても、公立高校と私立高校の学費格差は、すでに昭和四〇年度で11.4倍、昭和四四年度には、16.3倍、金額にしても一〇万円を超え、更に昭和四七年度には22.0倍と年々拡大の一途をたどつたのである。従つて、これらの事実に照らすならば、少くとも昭和四〇年代前半において国は、憲法二六条、教育基本法三条、一〇条二項、一一条に基づき、国民の高校教育を受ける権利が経済的条件等によつて阻害されることなく、現実に保障されるように、教育施設の設置、奨学金制度の創設、拡充等の教育諸条件を整備する具体的立法の制定義務を負うていたといわねばならない。
3 右のとおり、国は、国民の高校教育を受ける権利が現実に保障されるように、その教育諸条件を整備する立法義務を負つていたものであるが、その不作為が国家賠償法上の違憲性をおびるには、更に、その不作為の状態が合理的相当期間を経てもなお是正されなかつたことを要すると解されている。
ところで、この合理的相当期間の長さについては、当該立法義務を課した憲法規定の拘束力の強さ、立法の社会的必要性と権利保護のための必要性、立法内容の複雑さの程度、立法府の立法への意欲ないし取り組みの程度などを総合考慮して決められるべきであるとされているが、本件の場合、前記諸事実に加え、かかる事態は、すでに昭和三〇年代から予想され、昭和三六年にはそれをみこして全国知事会が文部省に対して高校生急増対策を要請したり、民間でも、昭和三七年四月には、高校全入問題全国協議会が結成されるなど大きな社会問題となつていたものである。また、都道府県の行う私立高校への助成に対する国庫補助等についても、毎年のように陳情あるいは要請がなされながら、有効な措置がとられず、前記のとおり公立高校の私立高校の学費格差が大阪府下において昭和四八年度には実に25.1倍にまで拡大し、その後も拡大の一途をたどつたのである。
従つて、少くとも本件請求にかかる昭和四八年以降については、右合理的相当期間を十二分に経過していたことは疑い得ないところである。
4 なお、立法不作為に対する国家賠償請求について、以上に加え、いわゆる「決断の契機」を問題にするものがあるが、立法義務が存するにもかかわらず、その不作為が継続するということによつて違憲状態があるといえるのであり、決断の契機は文字どおり契機にすぎず、違憲性の本質的要件たりえない。しかも、本件は直接の違憲確認訴訟ではなく、損害賠償の成立要件としての違憲性を問題にしていたにすぎない。従つて、かかる決断の契機を問題にする必要は全くない。
5 以上のとおり、本件においては、少くとも昭和四八年までには、当該立法義務はもとより、立法すべき合理的相当期間も十二分に経過しながら、十分な措置がとられなかつたものであり、立法不作為による被控訴人国の責任は明らかである。
第三証拠関係《省略》
理由
一当裁判所も控訴人らの本訴請求は理由がないと判断するものであつて、その理由は次のとおり訂正もしくは削除するほか、原判決理由中控訴人ら関係部分の説示と同一であるから、これを引用する(たゞし、原判決三九枚目表一二行目「明らかある」を「明らかである」と、同四五枚目裏六行目「8(一)(二)(ア)」を「8(一)(2)(ア)」と各改め、同四八枚目裏三行目「内閣が、」の次に「あるいは」を加える。)。
1原判決三九枚目表七行目、同裏四行目及び七行目並びに同四〇枚目表七行目各「予算案」を「予算」と、同四〇枚目表三行目冒頭「予算措置」から同五行目「裁量権を有し、」までを「予算の議決をするか否か、また立法措置を講じるとしていかなる種類、内容の立法をし、予算につき修正の議決をするか否かについての裁量権を有し、」と各改める。
2同四二枚目裏一一行目冒頭から同四三枚目表一行目末尾までを「(七)しかしながら、国会の立法不作為による国家賠償請求事件においても、三権分立の原則及び抽象的違憲審査が認められていないことに鑑み、国会が憲法上課せられた立法義務を懈怠したというだけでは、裁判所は国会の立法不作為の合憲か違憲かの判断をすることは許されず、右のほか、さらに当該立法不作為が国会の裁量権の逸脱によるものであつて、違憲であることの蓋然性が何人にも顕著であるときに立法のために通常考えられる合理的期間を徒過したこと及び立法自体が直接国民の権利義務に変動を及ぼす処分的性格を有する等立法不作為と損害との間に具体的な関連性を有することの条件を具備することを要すると考えるのが相当である。けだし、違憲立法による国家賠償請求と異なり、立法不作為による国家賠償請求においては、立法するかどうか、また、いかなる時期において立法するかは国会の高度の政治的判断に左右されることが多く、裁判所が軽々に口を出すことは差し控えるべきであつて、違憲の状態であるからといつて、直ちに立法不作為の違憲があるとはいゝえないからである。」と改める。
3同五〇枚目一〇行目冒頭から同五二枚目表九行目までを削る。
二控訴人らは、戦後の学校体系は、単線型を採用し、高校数育は小学校、中学校教育の延長線上の連続した課程として、しかも直ちに義務化されることはなかつたとはいえ、希望者全員入学を基本原則とし、無償化を現実のものとして展望する国民教育機関として出発したにもかゝわらず、国は、その後入学希望者の急増に対する対策として教育政策を転換し、学力検査を含む選抜を行うこととしたため、控訴人らの子供らは不当な差別により公立高校進学断念を余儀なくされた、即ち、選抜制度及び方法の差別性に進路指導における入試制度・経費等の外的要因による子供達の進路の断念とが相まつて、私立高校への進学を余儀なくされ、その結果受忍の限度をこえる多額の超過学費の負担を強制されているのであつて、これらはひとえに国の文教政策の欠如に由来するものであり、裁量の範囲を逸脱したものであると縷々主張する。
しかしながら、国が高校教育に関して実施している施策は前叙(原判決理由五)のとおりであつて、その政治的・専門的裁量の点を勘案するときは、前記控訴人ら主張の事実をもつてしても、被控訴人国に控訴人ら主張の如き裁量権の逸脱もしくは濫用があるということはできず、当審証人佐藤三郎、同桂正孝、同横山高徳の各証言及び当審における控訴人養父勇、同木本久枝の各本人尋問の結果、その他当審における証拠調の結果によつても右判断に何らの消長を来すものではない。
三以上の次第であるから、その余の条件の有無につき判断するまでもなく、控訴人らの本訴請求は理由がないから、これを棄却すべきである。
よつて、右と同旨の原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとして、民事訴訟法第三八四条一項、九五条、八九条、九三条一項を適用して、主文のとおり判決する。
(小林定人 坂上弘 小林茂雄)
請求目録
番号
控訴人氏名
請求金額
1
栗山百合子
二二万三六〇〇円
2
木本久枝
三六万五六〇〇円
3
長坂本一
長坂とみ子
三六万四三〇〇円
4
島田雅夫
島田昌子
三八万九〇〇〇円
5
甲斐嘉澄
甲斐島子
三二万四一〇〇円
6
北村初枝
三一万八三五〇円
7
前田キミ
五〇万七四〇〇円
8
桑野文子
一七万四五〇〇円
9
岩井貞雄
岩井明美
六五万九〇〇〇円
10
養父 勇
三四万七五〇〇円
11
近藤良一
近藤明子
三三万七七〇〇円
12
浜田実
浜田みさ江
四七万六一〇〇円
13
辻中広次
辻中秀子
四万三四七〇円
14
河合ハル子
二九万九一〇〇円
15
大磯岩男
大磯ナツエ
二九万一一二〇円